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ベガはベガでも・・・やっぱりベガ

論文を読んでいて、その論文中の挿図にあるライプツィヒの表記が「LEIBSIGK」とおもしろいものでした。
そこで、これまでに自分が読んだり見つけたりした表記を列挙してみようと思います。基本的には15世紀から17世紀のものとなります。
(やっぱりスタートは)in urbe libzi(1015年にライプツィヒの名前がはじめて登場した時のもの)
Lipzk
Lypczk
Leiptzigk
Leyptzigkh
Leipzigk
Leyptzigk
(そしてもちろん)Leipzig
16世紀後半や17世紀になると、多くが"Leipzigk"か"Leipzig"のようです。また、基本的に確認しているのはライプツィヒ自体に関わるものなので"allhier"(当地の、ここの)という語が当てられライプツィヒの地名自体はあまり登場しないケースも多々あります。それにしても冒頭の表記はこれまで出始めてみたパターンなのでびっくりしました。BとPに互換性があるのは知っていましたが、SとZというのは驚きです。
より学術的なものとして「ザクセンの歴史的地名一覧」のデータベースが有益です(ここでは「8. Ortsnamenformen」を参照)。その中には"Lipzcig"や"Leipczigk"のパターンも記載されています。Cがある方が発音上近いという印象を持ちます。

ちなみに日本語でも「ライプツィヒ」「ライプチヒ」「ライプツィッヒ」などの表記が見られます。自分はZの発音を踏まえて「ライプツィヒ」で統一していますが、以前にザクセン方言での発音を教えてもらったところ「ライプツィヒ」より「ライプチヒ」に近いように聞こえました(むしろ「ライプチッシュ」のような)。

ライプツィヒのスペルはもう何度も読んだので問題ないですが、他の地名や人名の固有名詞、(テーマ上関わる)武器などの特殊な名詞、さらには頻繁に混ざりこんでくるラテン語は、文書館史料を読んでいても極めて厄介なものです。

敗因はブリンカーを取ったことです

毎週出席しているゼミで発表を聞いている最中にふと、豊臣秀吉による「刀狩り」という語が思い浮かびました。その命令は1588年夏に出されています。
どうやら刀狩りというのはその知名度に比してあまり研究されてこなかったようで、数年前に藤木久志氏が新書を発表しています。(残念ながらまだ入手していないのですが)ここでの指摘によると、農民の(完全な)武装解除ではなく武器を用いた紛争の制限/禁止、つまり武器使用の制限を目標としていたとのことです。(すなわち、(帯刀した武士に対して)「丸裸の農民」というイメージの修正を試みています。)
西洋中世に関しても、農民のフェーデ権や武装権について服部良久氏が著書の一部扱っています。中世盛期以降に農民のフェーデ権は後退していくが、その一方武器自体が「名誉」のシンボルであったり軍事的義務の履行の際に不可欠であったりといった理由から、近世初頭まで農民の武装が決して解除されてはいなかったことを指摘しています。ここから「農民の武器所有は領邦防衛や治安のための奉仕義務と関連はするが、武器所有が暴力に直結するものではなく、武器所有(携行)と暴力は名誉という価値意識を媒介にして結びついた」(同書、15-16頁)という氏の指摘は極めて示唆的だと思います。
奇しくも同じ1588年夏に、我がライプツィヒでも学生や手工業者に対する武器携行禁止(Waffenverbot)が出されていることとつながってきて、興味深く感じました。
自分の研究は、「なぜ、武器携行の禁止という当時の都市社会で1つの重要なテーマが学生と手工業者に向けられていたのか」という点を出発点の1つにしています。若者である彼らは「名誉(Ehre)」や「男らしさ(Männlichkeit)」を重要な規範として抱いており、武器(剣やナイフなど)はその重要な象徴物であったわけですが、同時に彼らは頻繁に争いを起こす存在でもあった(~と公権力に見なされていた)わけです。
端的に言えば、武器携行の禁止をこうした当時の重要な観念である「名誉」と「都市平和」との狭間に位置づけることができるかと思います。若者に限らず、当時の市民にとっても武器を持つことは名誉を示すことであったり都市防衛に出動するためであったりといった意味を有していたのであり、「武装解除」は目指され得なかったとも考えられます。
その点で、上記の藤木氏の「…

観客動員数

ライプツィヒの地域新聞(Leipziger Volkszeitung)に興味深い記事(こちら)がありました。


「ライプツィヒの人口が再びドレスデンの人口より多くなる―ザクセンの大都市での人口増加」

 ライプツィヒとケムニッツは2013年の人口増加に喜ぶ。その原因は出生数の増加にあるというよりもむしろ移住にある―こうした移住はザクセンの小都市にも利益をもたらしている。ケムニッツでは11月末の時点で前年よりも900人弱が増加している。こうした人口増加には、戸籍局の2013年の統計によると3014人の新生児も貢献している―2012年の新生児数より114人多い。ケムニッツでの死亡者数は統計によると4092人と、確かに出生数よりも多い―これはライプツィヒでも同様で、5834人が生まれ6017人が死亡している。ライプツィヒでは転入数が転出数よりも11000人上回った。
 これによりライプツィヒでは前年よりも10808人の人口増がもたらされた。「総人口539348人となり再びドレスデンを上回った」と、都市広報部は統計についてコメントした。ドレスデン市庁舎発表の統計によると2013年末にはおよそ536000人がエルベの街(=ドレスデン)に住んでいるとのことで、ドレスデンでは2007年以降出生数が上回り人口が増加している。
 3年連続で2013年にもフライベルクの人口数は約40600人(前年比152人)へと増加した。当市では、市庁舎が伝えたように、鉱山アカデミーの学生に転入ボーナスを支払っている。フライベルクでの第一住所への登録に150€が出される。もちろん、死亡者数は652と、明らかに出生者数361を上回っている。2012年にはフライベルクで400人もの新生児が生まれ、これは21世紀で最多である。
 結婚を好む傾向は大都市では多かれ少なかれ際立っている。ケムニッツやツヴィッカウではわずかなカップルのみが「はい(結婚を好む)」と答えている一方、ゲルリッツやライプツィヒ、バウツェンでは前年よりも多くの人が「はい」と答えている。ケムニッツでは2012年より6組多い同性愛カップルが自身の関係を公表している。自由州(=ザクセン州)の極東に位置するゲルリッツでは、前年より2組減った。ツヴィッカウの戸籍局では、2012年より14組少ないカップルが婚姻届を出し、バウツェンでのそれは(前年より)1…

「有馬記念は「第10R」ですのでご注意ください」

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2013年ももう終わりに近づいていますが、ドイツに来て早半年が過ぎました。
簡単に現況を記しておきます。

10月よりTechnische Universität Dresden, Philosophische Fakultät(ドレスデン工科大学哲学部)のDoktorand(博士候補生)となりました。
所属は当ブログで何度も登場しているG.Schwerhoff教授の近世史講座です。
すでにゼミでは自己紹介代わりの短い発表をさせてもらっていますが、教授以外にも単著を発表したポスドクが在籍しており、いろいろとアドバイスをもらえるとてもいい環境に置かれています。パーティーにも読んでもらったりしており、(こちらのドイツ語能力は置いておいて)ゼミ生たちとも親しくさせてもらっています。
所属はドレスデンですが、住居は(教授たちとの話し合いを踏まえて)ライプツィヒに置いています。アパートはこんなところ「でした」。

所属先のドレスデンではなくライプツィヒ住んでいる理由は諸々ありますが、やはり研究拠点となる文書館の立地が大きいです。おかげで、ゼミのある日以外の平日はいつでも行ける状況になりルーティンとなっています。
その文書館では以下のような裁判史料を主として読んでいます。
こういった文書を読んだ上で理解し解釈をしなければならないのですが、現時点では解読にエクスタシーを感じています。
自分のスキル不足もあり、日々ゆっくりとこうした文書館史料を解読してながらもう一方で論文もガサガサ読んでいるという感じで、業績を創り出す段階には至っていません。
現時点で査読等を通過した段階のものは以下の2つです。
「フォーラム」(『比較都市史研究』第32巻第1号(2013年12月刊行予定))
「暴力事件はいかにして処理されたか─ 15世紀ライプツィヒのウアフェーデ台帳の分析を中心に─」(『早稲田大学文学研究科紀要』・・・(2014年3月刊行予定))
これら以外に、現在読んでいる史料等も使った論文を仕上げたいところですが、あくまで願望止まりなのでこれはさらなる課題として持っておきます。

併せ馬調教開始

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秋から所属予定のドレスデン工科大学の教授(Prof. Gerd Schwerhoff)を訪問してきました。ゼミでのバーベキューに招待+教授と面談ということで、ドレスデンに1泊2日の滞在泊りがけでした。

1日目のバーベキュー:
・雰囲気がとてもアットホーム
・大学院生たちが歓迎してくれる、親切
・日本人ということで、研究のことだけでなく日本文化のことなどもいろいろと質問攻めにあう
・教授の娘さん(小学校入学前)がかわいい+父親としての教授
・院生やポスドクの人たちから文書館などについて指摘をもらう
・やっぱり周りの大学院生の経験値は高い


(泊まった宿の最寄駅、中央駅から10数分の住宅街)

2日目の教授との面談:
・相変わらずいろいろと話してくれる
・秋学期前まで(8月末)に研究概要を示したレジュメ作成の課題をもらう
・文書館利用の推薦状をあっさり発行してくれる
・住む場所(文書館のある(=主たる仕事場である)ライプツィヒか大学のあるドレスデンか)の結論出ず
・ポスドク(Mitarbeiter)の2人も相談に乗ってくれる+昼食をごちそうしてくれる







午後はドレスデン中心部を散策
夕方には、「ドレスデンに住んだ場合」のアパートの第一候補を下見。少し値は張るが、立地や部屋のつくりなどは申し分なし。


これからゼミ等で会うとはいえ、初対面の研究者や院生の中に飛び込んだのは、極めていい経験だったと思います。有意義という一言に尽きます。
教授から出された課題と居住地選定の2つに集中的に取り組まなければならないのが少しツラいところですが、これを乗り越えないと無事に秋学期を迎えられません・・・。

深く残る蹄跡

歴史学界で重要な雑誌の1つである『史学雑誌』の毎年第5号(5月号)では前年の日本史・東洋史・西洋史のそれぞれの研究状況を紹介・概観する「回顧と展望」が発表されています。

今年のものでは、2012年12月に発表した拙稿2本が、以下の2ヶ所で取り上げられました。
「ヨーロッパ 中世 中東欧・北欧」(執筆:池田利昭氏)
全国学会で司会を引き受けていただいたなど、自分のテーマにいちばん近い先生に取り上げていただきました。 「我が国では数少ない、ドイツ東部の領邦都市を扱った論考であり、・・・、従来の議論をより豊かにすることが今後望まれる」とライプツィヒを事例とした意義を評価し、逆に課題としても指摘していただきました。
「ヨーロッパ 近代 ドイツ・スイス・ネーデルラント」(執筆:鈴木直志氏)
直接面識のない先生ですが、ヨーロッパの傭兵に関する著書は興味深く読ませていただいている方です。歴史犯罪研究が進展しているという文脈で取り上げていただきました。「参事会の定める規範史料だけで構成されている点が惜しまれる」とのご指摘をいただきました。まさに図星のところで、留学中に史料群の拡充を図って、先生のおっしゃる「歴史像を立体化させることが今後の課題」だと思います。

執筆した先生方には紹介だけでなくそれぞれ論評を付していただいており、ありがたい次第です。近年の研究動向に自分の研究業績も乗っていることの証となり、励みになります。

雑誌情報を提供してくれた先輩にはお礼申し上げます。

根岸なくして今日なし

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ライプツィヒの旧市庁舎(altes Rathaus)は1556年に市長Melchior Rotterの主導で改築されたルネサンス様式の建物です。現在は都市歴史博物館になっています。(以前の記事を参照ください。)
この建物の一周を回るようにして以下の文章が刻印されています。この文章の刻印はヨーロッパ最長のようです。以下にその原文と試訳をつけてみました。コンマがないので後半が難しいです。

NACH CHRISTI UNSERES HERRN GEBURTH IM MDLVI IAHR BEY REGIERUNG DES DURCHLAUCHTIGSTEN UND HOCHGEBORENEN FURSTEN UND HERRN AUGUSTI HERTZOGEN ZU SACHSEN DES H. ROM REICHS ERTZMARSCHALL UND CHURFÜRSTEN LANDGRAFF IN THÜRINGEN MARGGRAFFEN ZU MEISSEN U. BURGGRAFFEN ZU MAGDEBURG ETC. IST INDISER STADT ZU BEFÖRDERUNG GEMEINES NUTZENS DIESES HAUS IM MONATH MARTIO ZU BAUEN ANGEFANGEN UND DASSELBE DES ENDE IM NOVEMBRIS VOLLBRACHT. DEM HERRN SEY ALLEIN DIE EHRE, DENN WO DER HERR DIE STADT NICHT BAUET SO ARBEITEN UMSONST DIE DARAN BAUEN WO DER HERR DIE STADT NICHT BEWACHET SO WACHET DER WÄCHTER UMSONST DES HERRN NAHME SEY GEBENEDEYET EWIGLICH AMEN BEY CHURF. JOH. GEORG II. HOCHLÖBL. REGIERUNG RENOV. MDCLXXII.
我々の主であるキリストの生誕後1556年、やんごとなき高貴なる諸侯にして君主であるアウグストは、ザクセン大公にして神聖ローマ帝国の大マルシャルであり選帝侯、テューリンゲン方伯にしてマイセン辺境伯、マ…